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 街道膝栗毛のブログ  奥州道中膝栗毛/羽州街道膝栗毛/八戸街道膝栗毛
  奥州道中膝栗毛/羽州街道膝栗毛/八戸(上り)街道膝栗毛の最新情報をUPしていきます。これら東北の街道探索を中心にパソコンなどつれずれに記していきます。
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Facebookノートに4/6にUPした内容の転載です。
http://www.facebook.com/notes.php?drafts&id=193577640666672#!/note.php?note_id=205580476133055




◆ 3.12


朝目覚めると、まだ停電が続いている。



ラジオで情報収集をするが流れてくるニュースはにわかには信じられない内容だ。

曰く「陸前高田は8割壊滅」「死者不明者1000人超」など。

会社に出社してみるが停電と言うこともあり自宅待機となる。



そこで、会社から10km程の実家に寄ってみる事にする。



途中の店舗は全て閉まっている。スーパーは一部商品を外で販売しているが、並ぶ気が起きずスルー。自宅にガスランタンがある事を思い出し、ボンベ購入にDIY店にも寄るが、同様だ。

何よりガスリンスタンドも閉まっている。私は満タンだが、空に近い人は大変そうだ。前日ツイッターで関西の人が「ガソリンも不足するのでは」と返信をくれた事が少し引っ掛かる。この段階ではガソリン入手に苦労するとは思っていなかった。


実家に寄ってみると両親は元気にしていた。


それ程離れていないが、電話がつながらないだけで安否確認が取れないとは。やはり、車でラジオを聴いていた。

 ガスメーターの安全装置が掛かっていたので解除する。

 東京の妹とはメールが通じたので連絡する。何か送ろうかというので多少の食料をお願いする(購入はしてくれたが宅急便が被災地への配送不可という事送れなかったが)。

ラジオではこの地区、断水の恐れありと放送しているので教えておく。近くに湧き水が有るので何とかなるとの返答。




無事を確認したので自宅に戻る。


途中、昼ごろ本宮地区を通ると信号がついている。家も電気がついている。ラジオでは県庁付近そろそろ電気復旧という。

だが、郊外の自宅は停電のまま。復旧しているのを見ているので回復が待ち遠しい。

そうこうしている内に日が暮れてきたので食事の準備。今日の通電は諦める。

家族とLED懐中電灯の中で食事。すると、突然照明が点灯。

 

家族から歓声があがる。電気のありがたさをこの時ほど感じたことは無い。

 

 

テレビが復旧したので津波の映像を見る。釜石の街中が津波に呑まれる映像。宮古の鍬ヶ崎で車が数十台流れる映像。衝撃的で見ていたいが余り子供には見せたくない。

 

電気が通ったので風呂に入って就寝。

 

私は残ってテレビを見る。

 

後から聞くと我が家はかなり恵まれた状況で、岩手内陸部でも数日停電が続いた所もあり、断水の地域もあった。

もう平常に戻ったつもりで安心したが、これから長い間不便に耐える事になるとは思ってもいなかった。





この間もラジオでは沿岸の被害を報じていたが、まだ百人単位。東京では帰宅難民が発生し、助け合いが話題に。基地局のバッテリーが切れたのか今日になって携帯の電波が不調になった為余りツイッターは見ることが出来なかった。

 

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未曾有の大災害である今回の震災。体験を記録する事は有意義だと思うので何回かに分けて記したいと思う。 3/26にFacebookノートにUPした内容です。http://www.facebook.com/namahagekowai/posts/137993749605499?ref=notif&notif_t=like#!/note.php?note_id=202773029747133

◆3.11

 この日は釜石市に行く予定だったが体調が優れず、予定を延期、盛岡市内で仕事をしていた。

午後はガソリンを満タンにして事務所に戻り、事務処理。14:30過ぎには一休みで事務所の人たちと少し談笑。

 そして14時46分。盛岡市は震度5強で、立っていられない状態ではなかったが、外の車を見ると前後にすごい揺れ。向かいの木造住宅も目に見えて揺れている。

 揺れの途中で即停電し、パソコン使用不可。仕事にならないので何人かは携帯のワンセグを付ける。

 宮城県北部で震度7との放送。この段階で尋常でない地震だと気がつく。

 宮城県栗原市では数年前にも震度7の地震が起きている。その時は震源が内陸だったが今回は?

 続けて、震源は三陸沖との放送。

 となると津波が心配。第一波は15:00到達予定、もう15:00だ。

 津波の高さは10m?間違っているんじゃないの?にわかにはその数字が理解出来なかった。

 一週間くらい前には津波50cmで大騒ぎしていたし、昨年のチリ地震津波でも2~3mだった。10mといわれても・・・。

 

 停電は継続していたが、自宅に戻ってみる事にした。

 事務所から30分位の所に自宅があるが、途中の信号は停電で点灯していない。市内方面は渋滞が発生していたが逆方向はそれ程でもない。混んでいる交差点を避けながら自宅に向かう。車のラジオをつけているがしきりに津波注意、避難を呼びかけている。

 自宅に到着。家族は全員家に居り、子供たちはテーブルの下に隠れている。無事を確認して一安心。

停電が長引きそうな気がしたので、事務所には戻らない事にする。携帯は既に繋がらないのでメールを送る。

 直ぐに近くのコンビニに行き、カップラーメンなど食料を買い込む。コンビも勿論停電だが、発注用の端末のようなものでバーコードを読み取っていた。50人位が店に居たが商品はまだかなり残っていて、これから物不足になるとはこの時には思いもしなかった。

 家に戻ると、今度は懐中電灯を探す。家にはLEDの懐中電灯が2つある。後はLED照明の子供のおもちゃをいくつか出しておく。

 昨年末に大雪で県北は5日位停電したという事を覚えていたので、今夜は復旧は無いかも、と腹をくくる。

停電なのでテレビはつかない。ラジオは無いので車に戻りラジオを聴く。

 相変わらず避難を呼びかけている。

 近くに住む両親に電話をしてみるが繋がらない(家のIP電話も繋がらなかった)。近くなので大丈夫だとは思っていたが、連絡したい時に繋がらないのはもどかしい。気が付くと東京の妹からメールが。無事を知らせる返信をすると、更に返信が戻ってくる。妹は親と電話が繋がり無事を確認したとの事。一安心だ。

 携帯のツイッターも生きていた。ラジオの状況をつぶやいていたが、だんだん沿岸の状況が伝わってくる。宮古市の閉伊川を波が遡っているとの放送を聞き、親から聞いた昭和チリ地震津波の話を思い出した。曰く、船がかなり上流まで流されていた。少なくとも今回それ以上と確信した。

 ツイッターのTLでは仙台空港がすごいとテレビを見た人のツイートが流れる。テレビは見れないが、三陸以外でも被害が出ているのは分かった。

 暗くなってきたので家に入り、懐中電灯をセッティング。試行錯誤の上、照明を蛍光灯に向けるとぼやっと明るくなる事に気が付き固定。物置に反射式ストーブをしまっていたので、それを出してくる(電気がないのでFFファンヒーターは使えない)。

 一応、照明と暖房の準備はしていた訳だ。おかげで暗い以外は割りと快適だ。

 

 台所のガスも生きていたのでお湯を沸かし、家族でカップラーメンをすする。暗いので家族は早々に就寝。

 

私は車に戻り情報収集。携帯は車で充電出来るので充電しながらpostを続ける。

 ラジオを聴くと岩手で数十人の死者が出ているようだ。思ったより被害は少ないか、と思ったが夜遅く宮城県若林で2~300人が流れ着いたとのニュースを聞きつぶやく気力が萎える。早々に私も床に就く。

 それにしても、2週間経ってもこの日の出来事は鮮明に思い出せる。

油断していたら2ヶ月も更新を怠ってしまった。
Facebookにページを開設したりしていたのでそちらに意識が行ってしまったのが原因だ。



それはともかく、今日はこのブログの文字を大きくした事について少し書きたいと思う。




現在、自宅のPCはTVに接続して利用している。このテレビ、32型でフルHDという少し変わったスペックだ。
32型ぐらいだとフルHDでなくても良い、というのが定説らしいが、PCも接続しようと思っていたので解像度は大きいに越したことはないと思った訳だ。

概してこの判断は間違っていなかった(同じ画面でPCとTVを表示しても充分な情報量を表示出来る)ので満足しているのだが、用途の違いによる不便さが悩みの種である。




TVは2m以上離れてみるように、と言われて育ってきた私はその通りにTVを配置している。
すると、IEなどの文字が小さくて見えないのだ。

視力は裸眼で1.5以上なので、良い方なのだがそれでも厳しい。変換が良く見えなくて誤字も増えてしまう。IEの表示を150%くらいにすればいいのだが毎回では面倒だ。

と、言うことでこのブログでは文字サイズ自体を大きくする事にした訳。




PCによっては逆に見づらくなりますがご勘弁を。

 年末なので今年印象に残った事を記してみようと思う。やはり、盛岡桜山かな。

  

◎桜山説明会

 
私は奥州道中の探索をライフワークにしている。

 盛岡も奥州道中沿いの城下町だが、10月に盛岡城の一部、桜山地区での勘定所、土塁の復元計画を耳にした。

 
 この地域、複雑な権利関係がある、とは聞いた事はあったが、ランチ時などに何度か行ったくらいである。この段階で商店街自体に特に思い入れは無い。市にも特に肩入れしていない。

 それに、奥州道中の探索距離を伸ばすことが現状の目的でもあり、盛岡城自体の調査もそれ程掘り下げてもいなかった。とはいえ、何故勘定所?普通、天守、本丸の復元が先じゃないの?くらいの認識だ。

 


時間も出来たため、10月19日の説明会に参加してみる事にした。実際は、説明資料は盛岡市役所のHPにUPされていたし、ネットでは既に、署名用紙を配布するといった書き込みが見られたので、多少起きる事の心構えは出来ていた。

 勘定所風建物も税金を投入するほど必要不可欠とは思えなかったし、ガイダンス設備といっても近くに歴史館も出来るしプラザおでってにもその機能があるんじゃないの、とは思った。

 それに対して商店街は反対するだろう。

 

 
そして、説明会。市役所の会議室だ。 

 

 

市側はどうやら史跡管理計画と建築制限(現状より緩和)の説明をしたいようで、建築主事なども同席していた。

 

余り桜山と関係の無い話をする人もいて、本題になかなか入らなかったのだが、いよいよ商店街側からの質問という形で署名用紙の配布と趣旨説明が行われる。そこまでは想定内だったのだが、その内容を見てびっくり。

 

 計画の白紙撤回はともかく、商業地域化を求めるとある。

 

 私も多少は建築の事は知っているつもりだが、用途地域の変更がそう簡単に出来ない事は常識だし、商業地域は最も規制が緩い用途区分である。何も知らなければ気にしなかったかも知れないが。

  

ともかく、「なんで?」という感じ。

  

商店街を残すに特に反対はない(正直どちらでも良いと思っていた)が、その段階では商業地域がどうしても必要なのか理解が出来なかったというのが正直なところ。

 

市の案も唐突だが、こちらも負けずに唐突だ。 

 

まぁ、それ以前に会場の雰囲気は説明とか話し合いと程遠い雰囲気。

 

そういう訳で市の計画もイマイチだが、最初商店街に対する印象も相当悪かった。既得権を守るだけではなく既得権を強化しようとしているのではないか、とまで勘繰った訳だ。

 
 

  しかも、新聞の記事は「昭和の風情」桜山の建物と盛岡城(江戸時代)どちらかを取るかといった内容だ。

 

 どちらを取るか、といわれたら私は迷わず盛岡城だしなぁ。共存は出来ないの?

 
実際、建物に対する価値観は人それぞれだから、もめそうというのがその時の感想。実際今でも一部では議論がループしているけど。

 

  説明会を終えてみて、自分の中でどうも論理的整合性が付かない、違和感を感じる。納得出来ないものは応援できない。

 

 

今にして思えば各論にとらわれて、本質が分からなくなっていたのだろう。

 

 そこで、理解、納得するために、この地域の事を少し調べてみる事にした。

 


 

◎めんこいテレビ

 

 

見方が少し変わったのは、めんこいテレビで「Park ぱぁく」のおかあさんのインタビューを見てからか。

 (自分を含めてだが)冷静さを皆が失っていた中で、「普通の」感想が逆に新鮮だった。

 

 「ここにもひとがいるんだ」と思った。

  

「建物、史跡」では無く「ひと」を中心に考えて、やっと考えの筋道が出来た感じ。

 

  住民の生活を守ることが第一(どこかの党のキャッチのようになってしまったが)、それはこの場所で商売をしたいということなので、そのための方策を考えればいいのではないか、 という事である。

 

やっとすっきりした。

  

建物を残す事はその次の優先順位だし(残して欲しい人もいるとは思うが)。住人も建替えたい(あるいは建て替えが出来る余地を残したい)人も多そうだし。

 

 このころになると、歴史や問題点の大体勉強したので、後は実際にどういう場所か行ってみるだけ。

  

今、色々商店街にお邪魔して理解を深めているところ。

 

  

時鐘から美藤さんを望む。

 

 

  

 ◎来年は・・

 

 だが、商店街サイドで今後どうしたいのか今ひとつ分からないのも確か。

 

   来年年初に協議会参加について商店街の総会を開くそうだ。

 

協議会はともかく、ここで商店街の方向性が定まるのだろうか。

 

現状、署名用紙や、商店街チラシを読み込んでいくと下記の主張だと思われる。

 

 

1.現在地で商売を続けたい

 

2.商店街の規模も変えたくない

 

3.そのために半分が立ち退く市の土塁、勘定書計画は白紙撤回を求める。

 

4.公園では建替え出来ないので公園指定の解除を求める。

 

5.同じく規模が小さくならないよう用途地域を商業地域へ変更。

 

6.史跡解除までは求めない(商業地になっても史跡なので大きな建物は出来ない、とある)。

  

7.建替えも視野に入れる(公園解除や商業地域化を求めるということは特に今の建物を残したい訳ではないのでは)。

 

 これで良いのだろうか。商店街の総意なのだろうか。署名も集まり少し状況が変わっているのではないだろうか。

 

商店街は一枚岩なのだろうか。建物もそのまま残したい人も居るのではないか。疑問は尽きない。

 

 

 それなりに調べている私でもはっきり分からないのだ。新聞位しかソースがない人々はもっと分からないのではないだろうか。

 
個人的には商店街全体の方向性を示してくれれば、何か力になれないか、とも思っているし、逆に史跡解除を求めるとなればちょっと応援しづらくなるし、今のところどうなるか様子を見ているところ。

 

 もちろん各論は市、神社、商店街など当事者で交渉する事柄だろう。 ただ、商店街としての方向性をまずひとつにまとめて外部にも知らせて欲しいところ。

 

 

一般的には、正直どちらでも良い、あるいは無関心な人が最も人数的には多いのでは。

 

 

そうした人々の興味を引いて行けば、商店街の後押しをしてくれる人も増えるのではないだろうか。

 

また、ネットで発言する人はごく少数だと思うが、それを見ている人はその何倍も居るもの。こうしたところも上手く利用して欲しいし、そのためにはスピーディな情報が欲しい。それも良い点、悪い点含めて。

一般的にも、触れていない情報(隠していないとしても)が拡散し、隠しているように思われるケースも増えている事だし。最近は新聞やワイドショーよりネットの情報が早い。

 

 

 

いずれ、来年は商店街の「発信力」に期待します。

 

 

 

解決できない問題はないと思っていますので来年はよい方向に進んでくれる事を祈っています。

 

 

 

 

ところで、盛岡城の中の商店街、という立地は足かせでなく最高のセールスポイントだと思いますよ。

 



 協議に向けての機運が高まっているようなので、少し様子を見てみようと思っていたが、さっぱり情報が流れてこない。


 そこで前回途中で終わっていた発掘調査について追加しておこうと思う。

 
 なんとなく署名を求めているのに市民に対する情報開示が少ないように思うのだが…(ヒトリゴトデスガ)。



桜山で本発掘をしたら


 前回発掘についての一般論をブログに書いたが、最近は遺構の保護、つまり埋めたままにする事が増えているそうである。今まで散々掘り起こしておい
て良く言うと思うが、発掘作業自体が遺跡を破壊するという考え方である。


 ごもっともだが、徳丹城など重要な遺跡では発掘が継続されているから、予算の削減など別の要素も割
り引いて考える必要があるだろう。


 ともかく、桜山参道地区は盛岡城で国史跡だから、普通の埋蔵文化財地区より重要度は高い。


 その中でもし、建替などで土地が空いた場合、当然発掘調査は行われるだろう。


 ただ、盛岡城は近世の構造物で比較的最近のものだ。土砂がそれほど堆積してはいないし、江戸時代初
期に造営された城で、戦国で敗れた城が埋められたという事実もない。なので発掘しても驚くべきものは出てこないと思われる。


 まして、地表から40~50cmは今の建物の基礎工事で既に破壊されている。勘定所が大きな建物なら
ば礎石の跡がその下に残っている可能性もあるが(あと便槽とか)、文献などで所在が掴めているだろうから世紀の大発見とはいかないだろう。


 隣の盛岡東警察署の建替でも発掘調査は行われたが、その後立派なビルが出来たのは皆さんご存知の通り。

 
  内丸のこの地は史跡ではないが、下曲輪と同じような建物が江戸時代には建っていたので、重要物があ
れば工事に影響が出ただろう。


 そして下曲輪の綱門は正門だが、特別の場合以外使われなかったというし、西側は広場だったようだ。
(そういえば説明会などでも間取図など詳しい資料は示されていなかったな)。




 
 そう考えると発掘しても何も出てこない可能性もある。





 こうなった場合、調査をして何も出てこないのに地下部分の掘削を認めない、というのは論理的整合性
に難がある。


 何を言いたいかといえば、調査で何も出なかった場合、深さ50cmを超えて掘削できるのではないかと
いうこと。

 
 深く基礎を掘れるということは大規模な建物も建築可能ではないか、との疑問が生じる。住
宅でも1mくらいの基礎は掘りたいし、それは可能ではないか、という疑問だ。


 市の説明会では1種から4種の管理区分が示されていたが、文化庁の指導を受けたとはいえこれは市が策
定したもの。商業地域などの用途地域とは少し違う。しかも案でまだ決定してもいない。


 だとすれば、基礎の深さはさほど重要な項目ではないのではないかとも思うのだが。これは解説という
より私の疑問点なので今後調べていきたいと思う。



sakurayama22.jpg














櫻山神社








保存するのはいつの遺跡か


 盛岡城は江戸時代の遺構だが、保存すべきはいつの状態なのだろう。


 櫻山神社は江戸時代には現在位置ではなく、淡路丸に所在していた。現在位置には明治時代に遷座した
ので、江戸時代に復元となると厳密には櫻山神社も移転しなければならなくなる。


 ただ、どの状態に保存するかといえば答えは出ており、昭和12年の史跡指定時である。


 史跡や、文化財の指定はそこで時間を止めるようなもので、昭和12年の状態が基本となる。そこからの
変更は特例で、間取図や立面が残っている復元に限られる。


 盛岡城でも地元商工会議所などが中心となって本丸や天守閣の復元の機運が高まった事があるが、きち
んとした資料が無い、との事で却下されている。

 もっとも、志波城の城柵など、きちんとした立面が分かっていたのか疑問なものもあるが。

 


 そう考えると江戸時代と昭和の対立というより昭和12年と戦後(昭和20年以降)の対立という構図に
なる。


 少なくても「建物」で桜山商店街と盛岡城を比較するのは無理がある。仮に桜山商店街の建物を文化財
などで時間を止めてしまい、今以上に手を加えられなくなったらそれこそ商売に支障が出るだろう。文化財は見る分にはいいが住むには不便が多い。


 

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