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 街道膝栗毛のブログ  奥州道中膝栗毛/羽州街道膝栗毛/八戸街道膝栗毛
  奥州道中膝栗毛/羽州街道膝栗毛/八戸(上り)街道膝栗毛の最新情報をUPしていきます。これら東北の街道探索を中心にパソコンなどつれずれに記していきます。
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4/21のFacebookページにUPしたものと同内容です。
http://www.facebook.com/note.php?saved&&note_id=206042856086817&id=193577640666672


◆3/13

電気も復旧したし、数日したら普通の生活に戻れると思っていたが、どうも勝手が違うな、と思い始めたのが3日目。

ホーマックに行っても閉まっている。スーパーも、ガソリンスタンドも。

 

ニュースによると津波で石油精製所、港湾などが被害を受け、殆ど東北に石油製品が入荷していない状況だという。

 

ガソリンは地震の直前に満タンにしていたし、地震直後は1週間くらいで供給が回復すると読み自宅待機で温存作戦を取る。

 

 

 

3日目でもスタンドは休業の所が多かったが、いくつかは開いている。だが、そういう店は長蛇の列。道路に数百メートル路上駐車をしている。

 

 

県の指定で緊急用車両のみ給油をしているスタンドもある。
勿論、緊急車両に優先的にガソリンが廻るのは当然だ。沿岸を思えば我慢は吝かではない。

ニュースを聞くと車が動かせない為自転車が売れているという。
多くの人は復旧した電車と徒歩で通勤を始める。その流れで自転車の需要が増えている訳だ。



一方、ガソリンスタンドでは、タンクが空になってきたのだろう、余裕がなくなってきている。

 

片側1車線の道路に車が並び、通行に支障が出る。

夜に無人の車を置き去りにする。

福島県や奥州市では車の中で亡くなる方も出る。

人身事故も出る。

 

ガソリンをポリタンクに入れる。危険ですよね。そのせいか車両火災で高速道路の通行止めも発生。

 


そのため、警察の指導も入り、整理券を配り規制をするようになる。

 



◆大規模輸送作戦

一方、問題が大きくなると国も動き出す。

貨車を仕立て、日本海~青森~盛岡経由でガソリン、軽油を輸送。
そうこうしているうちに、塩釜製油所も復旧し始める。

 

 



【参考】河野太郎氏のツイッター

 塩釜油槽所の能力は、一日あたりの出荷能力5000kl。平時の東北全体の燃料油販売量は一日あたり38000kl、宮城県で一日あたり10000kl。現在塩釜からの出荷と青森、新潟、秋田の油槽所からのローリー輸送と鉄道による出荷で差を埋めていきます。3/19

 

横浜市根岸から鉄道で、線路が被害を受けていないところを選んで、新潟、秋田、青森を経由してそこから南下して盛岡に26時間かけてガソリンを運んでいるそうです。がんばれ!3/20

 

 

このツイート、とても頼もしかった記憶がある。ただ、冷静になって考えてみると国が本腰を入れ、大規模な流通が始まったのは震災から1週間以上過ぎてからという事になる(3月19頃から)。

それ以前、16日頃から通行止めの高速をタンクローリーが通れるようになっている。


ただ、内陸部ではすぐには供給は回復しなかった。

 



沿岸の被災地に優先的に供給。

それに一度空になった皆のタンクを一度満たさなければ平常化しない。

供給が回復すると期待した分落胆も大きい。タンクも空になってくる、といった具合で、行列もますます長くなる。我慢出来なくなったか、回復すると踏んで使ってしまったか。



逆に便乗値上げも蔓延している。価格が上乗せされ153円平均のところが172円。200円で怒っていたら、藪川300円400円の噂も。

隣接の店が高単価だと一方が入れられる状況になる。それで入れれた面も確かにある(回復後は一度も行っていないが)。

一時は沿岸に手伝いに行きたくてもいけない。はがゆいと思ったもの。

 



実際、岩手内陸部で並ばなくても良くなったのは4月に入ってから。

ある日、急に並ばなくても良くなる。

 

「満タンOK」の看板だけが寂しく残る。

ただ、宮城などではもう少し回復まで時間が掛かったようである。




◆供給不足再び?

ところで、やっと供給が正常化したと思っていた4月7日。夜に大きな余震があり翌日昼頃まで盛岡近郊は停電していた。

午前中はスタンドも閉めていたところが多かった訳だが、この状況に不安を感じたか、夕方までスタンド渋滞が再び発生している。

このときは油関連施設が被災しておらず、単なるパニックだった訳だが…。

冷静になって欲しいと思ったものです。

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Facebookノートに4/6UPした内容です。
http://www.facebook.com/iwateken#!/note.php?note_id=205599119464524

 



◆沿岸へ

 

会社では、震災後パネルトラックを調達し、最初の1週間で出来るだけ物資を沿岸に届ける活動をしていた。

3/17。いよいよ、私も沿岸に向かう番だ。私も沿岸に住んでいたことがあるため早く行きたかった。

物資を届ける、と意気込んで出発したが、現地で言葉も出なくなってしまうのだが・・・。

この日は沿岸部への通行止めも解除されていたため、途中止められることも無く釜石へ。

初日には崩落したと伝えられた新仙人道路も問題なく通行できた(ただ、地盤の沈下があり、至るところ道路がでこぼこになっている)。

平地の少ない釜石市の住宅街は甲子町などかなり山手まで延びている。そこから野田、小佐野などは電気もこの日復旧し、ソフトバンクの携帯も通じていた(この日docomoも開通)。ぱっと見は特に被害も無いようだ。

だが、釜石駅付近から、道路脇に泥がたまり始め、変な向きに車が止まっている。

商店街方向は通行止めなので、釜石駅から平田方面へ向かう。両脇は既にガレキの山だ。

国道45号との分岐店には若干の住宅とパチンコ屋があったのだが、住宅は無くなり、パチンコ屋はガレキに埋まっている。近くのビルも1Fは骨組みだけだ。重機が車を撤去している。

正直、そこまでは多少のドライブ気分もあったのだが、そんな気持ちは吹き飛び車内は無言。

目的地は大槌なので北上する。

トンネルへ向かう橋もかなり上まで浸水の跡がある。その頂上付近から市街地を望むとやはりガレキだらけ。良く行った中華料理屋も残っていないだろう。ただ、中心部はすぐ山なので殆どの人は逃げたのだろうと想像した。

このあたりは勿論停電で携帯も繋がらない。

◆両石・鵜住居

トンネルの中も真っ暗だが、良く見ると人が歩いている。普段人が通るような道路ではないのだが・・・。最近三陸道の一部として自動車専用道路が開通したのだがその中も人が歩いている。一般道は通行止めだからだ。

両石道路の入り口付近はテレトラック(場外馬券場)があるが、壊滅的状態だ。

何より両石道路より山側まで津波が来ている。釜石市街地と較べ被害が大きいのは一目瞭然だ。

ツイッターで両石の状況を心配していた人がいたな、とふと思い出す。家族は大丈夫だったのだろうか?

そして三陸道を下りる鵜住居、片岸町。

何も無い。一面のガレキだ。川の上流にトラックと船が並んでいる。下っていくと公営住宅があるが3Fまで波が来た跡がある。

海よりにゴルフの練習場があるが、何故かそれだけ残り、近くの堤防も破壊されている。

◆大槌

片岸町から山(トンネル)を超えると大槌町だ。

現在、大槌にはバイパスが通り、ショッピングセンターマストがあるこの場所は感覚的には海からはかなり離れている認識だ。

そこまで津波が来ている。それどころかバイパスより山寄りも浸水している。

目的地は城山の中央公民館なので、役場方向に行こうとするが道路が途中で無くなる。

一度車から降りてみる。

妙なにおい。生臭いというか、海のにおいというか。

色々混ざっているのだろうが不快なにおいだ。雪が降るほど寒いのが幸いかも知れない。初期には魚も大分打ち上げられていたというし。

大槌は火災もあったため、ただのガレキではなく焼け焦げている。消防団の集団が近くに居たが、良く見ると不明者が発見されたようだ。

この景色は例えようがないが、きっと戦場ほこうなんだろうな、とふと思った。

邪魔にもなるし、早く立ち去りたいので、違う道から市役所方面を目指す。だが、そこも町内に入れない。安渡方向にも車では行けないようだ。

他にも尋ねてきた人が来るが奥に入れない。その人が自衛官と話をしていたので中央公民館を聞いてみると裏からしか行けないという。親切にも途中まで案内してくれるという(仕事の邪魔してごめんなさい)。

結局、市役所側からは行けず、大ヶ口方向から大きく迂回しなければならなかった。しかも山道で車がすれ違う事が出来ないような道。そこへ2tのパネルトラックで行ったものだからたどり着くのに一苦労。しかも公民館近くの道路脇は焼け焦げていて火の手が近くまで迫った事が想像出来る。

それでも、何とか公民館に辿り着く。

そこは災害本部、避難所、物資集積所となっていたが、物資の運び込みに向かないところ(後に安渡小学校に物資集積所は移動したが)。ここで物を降ろす。

ただ、この段階で水、毛布などはかなり在庫が集まっており、当面間に合いそうな感じ。ただ、電池、トイレットペーパー、懐中電灯、オムツ、ウェットティッシュなどは喜んで貰えた。

無事に荷降ろしが出来た訳だが、ここから見る大槌町内は悲惨な状況だ。港まで何も無い。

ここでも良く行った中華料理屋があったのだが跡形も無い。まだ、煙がくすぶっている状態だ。

◆帰りに

後は無言で帰宅の途についたのだが、途中の大ヶ口団地に給水車が来ていた。それを見て、物資集積所に集まった物はここにも分配されるのだろうか、と疑問に思ったものだ。1週間も停電で買出しにも行けないのでは避難所よりも大変だ。後に問題提起され、改善したようだが。

 

Facebookノートに4/6にUPした内容の転載です。
http://www.facebook.com/notes.php?drafts&id=193577640666672#!/note.php?note_id=205580476133055




◆ 3.12


朝目覚めると、まだ停電が続いている。



ラジオで情報収集をするが流れてくるニュースはにわかには信じられない内容だ。

曰く「陸前高田は8割壊滅」「死者不明者1000人超」など。

会社に出社してみるが停電と言うこともあり自宅待機となる。



そこで、会社から10km程の実家に寄ってみる事にする。



途中の店舗は全て閉まっている。スーパーは一部商品を外で販売しているが、並ぶ気が起きずスルー。自宅にガスランタンがある事を思い出し、ボンベ購入にDIY店にも寄るが、同様だ。

何よりガスリンスタンドも閉まっている。私は満タンだが、空に近い人は大変そうだ。前日ツイッターで関西の人が「ガソリンも不足するのでは」と返信をくれた事が少し引っ掛かる。この段階ではガソリン入手に苦労するとは思っていなかった。


実家に寄ってみると両親は元気にしていた。


それ程離れていないが、電話がつながらないだけで安否確認が取れないとは。やはり、車でラジオを聴いていた。

 ガスメーターの安全装置が掛かっていたので解除する。

 東京の妹とはメールが通じたので連絡する。何か送ろうかというので多少の食料をお願いする(購入はしてくれたが宅急便が被災地への配送不可という事送れなかったが)。

ラジオではこの地区、断水の恐れありと放送しているので教えておく。近くに湧き水が有るので何とかなるとの返答。




無事を確認したので自宅に戻る。


途中、昼ごろ本宮地区を通ると信号がついている。家も電気がついている。ラジオでは県庁付近そろそろ電気復旧という。

だが、郊外の自宅は停電のまま。復旧しているのを見ているので回復が待ち遠しい。

そうこうしている内に日が暮れてきたので食事の準備。今日の通電は諦める。

家族とLED懐中電灯の中で食事。すると、突然照明が点灯。

 

家族から歓声があがる。電気のありがたさをこの時ほど感じたことは無い。

 

 

テレビが復旧したので津波の映像を見る。釜石の街中が津波に呑まれる映像。宮古の鍬ヶ崎で車が数十台流れる映像。衝撃的で見ていたいが余り子供には見せたくない。

 

電気が通ったので風呂に入って就寝。

 

私は残ってテレビを見る。

 

後から聞くと我が家はかなり恵まれた状況で、岩手内陸部でも数日停電が続いた所もあり、断水の地域もあった。

もう平常に戻ったつもりで安心したが、これから長い間不便に耐える事になるとは思ってもいなかった。





この間もラジオでは沿岸の被害を報じていたが、まだ百人単位。東京では帰宅難民が発生し、助け合いが話題に。基地局のバッテリーが切れたのか今日になって携帯の電波が不調になった為余りツイッターは見ることが出来なかった。

 

未曾有の大災害である今回の震災。体験を記録する事は有意義だと思うので何回かに分けて記したいと思う。 3/26にFacebookノートにUPした内容です。http://www.facebook.com/namahagekowai/posts/137993749605499?ref=notif&notif_t=like#!/note.php?note_id=202773029747133

◆3.11

 この日は釜石市に行く予定だったが体調が優れず、予定を延期、盛岡市内で仕事をしていた。

午後はガソリンを満タンにして事務所に戻り、事務処理。14:30過ぎには一休みで事務所の人たちと少し談笑。

 そして14時46分。盛岡市は震度5強で、立っていられない状態ではなかったが、外の車を見ると前後にすごい揺れ。向かいの木造住宅も目に見えて揺れている。

 揺れの途中で即停電し、パソコン使用不可。仕事にならないので何人かは携帯のワンセグを付ける。

 宮城県北部で震度7との放送。この段階で尋常でない地震だと気がつく。

 宮城県栗原市では数年前にも震度7の地震が起きている。その時は震源が内陸だったが今回は?

 続けて、震源は三陸沖との放送。

 となると津波が心配。第一波は15:00到達予定、もう15:00だ。

 津波の高さは10m?間違っているんじゃないの?にわかにはその数字が理解出来なかった。

 一週間くらい前には津波50cmで大騒ぎしていたし、昨年のチリ地震津波でも2~3mだった。10mといわれても・・・。

 

 停電は継続していたが、自宅に戻ってみる事にした。

 事務所から30分位の所に自宅があるが、途中の信号は停電で点灯していない。市内方面は渋滞が発生していたが逆方向はそれ程でもない。混んでいる交差点を避けながら自宅に向かう。車のラジオをつけているがしきりに津波注意、避難を呼びかけている。

 自宅に到着。家族は全員家に居り、子供たちはテーブルの下に隠れている。無事を確認して一安心。

停電が長引きそうな気がしたので、事務所には戻らない事にする。携帯は既に繋がらないのでメールを送る。

 直ぐに近くのコンビニに行き、カップラーメンなど食料を買い込む。コンビも勿論停電だが、発注用の端末のようなものでバーコードを読み取っていた。50人位が店に居たが商品はまだかなり残っていて、これから物不足になるとはこの時には思いもしなかった。

 家に戻ると、今度は懐中電灯を探す。家にはLEDの懐中電灯が2つある。後はLED照明の子供のおもちゃをいくつか出しておく。

 昨年末に大雪で県北は5日位停電したという事を覚えていたので、今夜は復旧は無いかも、と腹をくくる。

停電なのでテレビはつかない。ラジオは無いので車に戻りラジオを聴く。

 相変わらず避難を呼びかけている。

 近くに住む両親に電話をしてみるが繋がらない(家のIP電話も繋がらなかった)。近くなので大丈夫だとは思っていたが、連絡したい時に繋がらないのはもどかしい。気が付くと東京の妹からメールが。無事を知らせる返信をすると、更に返信が戻ってくる。妹は親と電話が繋がり無事を確認したとの事。一安心だ。

 携帯のツイッターも生きていた。ラジオの状況をつぶやいていたが、だんだん沿岸の状況が伝わってくる。宮古市の閉伊川を波が遡っているとの放送を聞き、親から聞いた昭和チリ地震津波の話を思い出した。曰く、船がかなり上流まで流されていた。少なくとも今回それ以上と確信した。

 ツイッターのTLでは仙台空港がすごいとテレビを見た人のツイートが流れる。テレビは見れないが、三陸以外でも被害が出ているのは分かった。

 暗くなってきたので家に入り、懐中電灯をセッティング。試行錯誤の上、照明を蛍光灯に向けるとぼやっと明るくなる事に気が付き固定。物置に反射式ストーブをしまっていたので、それを出してくる(電気がないのでFFファンヒーターは使えない)。

 一応、照明と暖房の準備はしていた訳だ。おかげで暗い以外は割りと快適だ。

 

 台所のガスも生きていたのでお湯を沸かし、家族でカップラーメンをすする。暗いので家族は早々に就寝。

 

私は車に戻り情報収集。携帯は車で充電出来るので充電しながらpostを続ける。

 ラジオを聴くと岩手で数十人の死者が出ているようだ。思ったより被害は少ないか、と思ったが夜遅く宮城県若林で2~300人が流れ着いたとのニュースを聞きつぶやく気力が萎える。早々に私も床に就く。

 それにしても、2週間経ってもこの日の出来事は鮮明に思い出せる。

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