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年末なので今年印象に残った事を記してみようと思う。やはり、盛岡桜山かな。
◎桜山説明会
私は奥州道中の探索をライフワークにしている。
盛岡も奥州道中沿いの城下町だが、10月に盛岡城の一部、桜山地区での勘定所、土塁の復元計画を耳にした。
この地域、複雑な権利関係がある、とは聞いた事はあったが、ランチ時などに何度か行ったくらいである。この段階で商店街自体に特に思い入れは無い。市にも特に肩入れしていない。
それに、奥州道中の探索距離を伸ばすことが現状の目的でもあり、盛岡城自体の調査もそれ程掘り下げてもいなかった。とはいえ、何故勘定所?普通、天守、本丸の復元が先じゃないの?くらいの認識だ。
時間も出来たため、10月19日の説明会に参加してみる事にした。実際は、説明資料は盛岡市役所のHPにUPされていたし、ネットでは既に、署名用紙を配布するといった書き込みが見られたので、多少起きる事の心構えは出来ていた。
勘定所風建物も税金を投入するほど必要不可欠とは思えなかったし、ガイダンス設備といっても近くに歴史館も出来るしプラザおでってにもその機能があるんじゃないの、とは思った。
それに対して商店街は反対するだろう。
そして、説明会。市役所の会議室だ。
市側はどうやら史跡管理計画と建築制限(現状より緩和)の説明をしたいようで、建築主事なども同席していた。
余り桜山と関係の無い話をする人もいて、本題になかなか入らなかったのだが、いよいよ商店街側からの質問という形で署名用紙の配布と趣旨説明が行われる。そこまでは想定内だったのだが、その内容を見てびっくり。
計画の白紙撤回はともかく、商業地域化を求めるとある。
私も多少は建築の事は知っているつもりだが、用途地域の変更がそう簡単に出来ない事は常識だし、商業地域は最も規制が緩い用途区分である。何も知らなければ気にしなかったかも知れないが。
ともかく、「なんで?」という感じ。
商店街を残すに特に反対はない(正直どちらでも良いと思っていた)が、その段階では商業地域がどうしても必要なのか理解が出来なかったというのが正直なところ。
市の案も唐突だが、こちらも負けずに唐突だ。
まぁ、それ以前に会場の雰囲気は説明とか話し合いと程遠い雰囲気。
そういう訳で市の計画もイマイチだが、最初商店街に対する印象も相当悪かった。既得権を守るだけではなく既得権を強化しようとしているのではないか、とまで勘繰った訳だ。
しかも、新聞の記事は「昭和の風情」桜山の建物と盛岡城(江戸時代)どちらかを取るかといった内容だ。
どちらを取るか、といわれたら私は迷わず盛岡城だしなぁ。共存は出来ないの?
実際、建物に対する価値観は人それぞれだから、もめそうというのがその時の感想。実際今でも一部では議論がループしているけど。
説明会を終えてみて、自分の中でどうも論理的整合性が付かない、違和感を感じる。納得出来ないものは応援できない。
今にして思えば各論にとらわれて、本質が分からなくなっていたのだろう。
そこで、理解、納得するために、この地域の事を少し調べてみる事にした。
◎めんこいテレビ
見方が少し変わったのは、めんこいテレビで「Park ぱぁく」のおかあさんのインタビューを見てからか。
(自分を含めてだが)冷静さを皆が失っていた中で、「普通の」感想が逆に新鮮だった。
「ここにもひとがいるんだ」と思った。
「建物、史跡」では無く「ひと」を中心に考えて、やっと考えの筋道が出来た感じ。
住民の生活を守ることが第一(どこかの党のキャッチのようになってしまったが)、それはこの場所で商売をしたいということなので、そのための方策を考えればいいのではないか、 という事である。
やっとすっきりした。
建物を残す事はその次の優先順位だし(残して欲しい人もいるとは思うが)。住人も建替えたい(あるいは建て替えが出来る余地を残したい)人も多そうだし。
このころになると、歴史や問題点の大体勉強したので、後は実際にどういう場所か行ってみるだけ。
今、色々商店街にお邪魔して理解を深めているところ。
◎来年は・・・
だが、商店街サイドで今後どうしたいのか今ひとつ分からないのも確か。
来年年初に協議会参加について商店街の総会を開くそうだ。
協議会はともかく、ここで商店街の方向性が定まるのだろうか。
現状、署名用紙や、商店街チラシを読み込んでいくと下記の主張だと思われる。
1.現在地で商売を続けたい
2.商店街の規模も変えたくない
3.そのために半分が立ち退く市の土塁、勘定書計画は白紙撤回を求める。
4.公園では建替え出来ないので公園指定の解除を求める。
5.同じく規模が小さくならないよう用途地域を商業地域へ変更。
6.史跡解除までは求めない(商業地になっても史跡なので大きな建物は出来ない、とある)。
7.建替えも視野に入れる(公園解除や商業地域化を求めるということは特に今の建物を残したい訳ではないのでは)。
これで良いのだろうか。商店街の総意なのだろうか。署名も集まり少し状況が変わっているのではないだろうか。
商店街は一枚岩なのだろうか。建物もそのまま残したい人も居るのではないか。疑問は尽きない。
それなりに調べている私でもはっきり分からないのだ。新聞位しかソースがない人々はもっと分からないのではないだろうか。
個人的には商店街全体の方向性を示してくれれば、何か力になれないか、とも思っているし、逆に史跡解除を求めるとなればちょっと応援しづらくなるし、今のところどうなるか様子を見ているところ。
もちろん各論は市、神社、商店街など当事者で交渉する事柄だろう。 ただ、商店街としての方向性をまずひとつにまとめて外部にも知らせて欲しいところ。
一般的には、正直どちらでも良い、あるいは無関心な人が最も人数的には多いのでは。
そうした人々の興味を引いて行けば、商店街の後押しをしてくれる人も増えるのではないだろうか。
また、ネットで発言する人はごく少数だと思うが、それを見ている人はその何倍も居るもの。こうしたところも上手く利用して欲しいし、そのためにはスピーディな情報が欲しい。それも良い点、悪い点含めて。
一般的にも、触れていない情報(隠していないとしても)が拡散し、隠しているように思われるケースも増えている事だし。最近は新聞やワイドショーよりネットの情報が早い。
いずれ、来年は商店街の「発信力」に期待します。
解決できない問題はないと思っていますので来年はよい方向に進んでくれる事を祈っています。
ところで、盛岡城の中の商店街、という立地は足かせでなく最高のセールスポイントだと思いますよ。
協議に向けての機運が高まっているようなので、少し様子を見てみようと思っていたが、さっぱり情報が流れてこない。
そこで前回途中で終わっていた発掘調査について追加しておこうと思う。
なんとなく署名を求めているのに市民に対する情報開示が少ないように思うのだが…(ヒトリゴトデスガ)。
桜山で本発掘をしたら
前回発掘についての一般論をブログに書いたが、最近は遺構の保護、つまり埋めたままにする事が増えているそうである。今まで散々掘り起こしておいて良く言うと思うが、発掘作業自体が遺跡を破壊するという考え方である。
ごもっともだが、徳丹城など重要な遺跡では発掘が継続されているから、予算の削減など別の要素も割り引いて考える必要があるだろう。
ともかく、桜山参道地区は盛岡城で国史跡だから、普通の埋蔵文化財地区より重要度は高い。
その中でもし、建替などで土地が空いた場合、当然発掘調査は行われるだろう。
ただ、盛岡城は近世の構造物で比較的最近のものだ。土砂がそれほど堆積してはいないし、江戸時代初期に造営された城で、戦国で敗れた城が埋められたという事実もない。なので発掘しても驚くべきものは出てこないと思われる。
まして、地表から40~50cmは今の建物の基礎工事で既に破壊されている。勘定所が大きな建物ならば礎石の跡がその下に残っている可能性もあるが(あと便槽とか)、文献などで所在が掴めているだろうから世紀の大発見とはいかないだろう。
隣の盛岡東警察署の建替でも発掘調査は行われたが、その後立派なビルが出来たのは皆さんご存知の通り。
内丸のこの地は史跡ではないが、下曲輪と同じような建物が江戸時代には建っていたので、重要物があれば工事に影響が出ただろう。
そして下曲輪の綱門は正門だが、特別の場合以外使われなかったというし、西側は広場だったようだ。
(そういえば説明会などでも間取図など詳しい資料は示されていなかったな)。
そう考えると発掘しても何も出てこない可能性もある。
こうなった場合、調査をして何も出てこないのに地下部分の掘削を認めない、というのは論理的整合性に難がある。
何を言いたいかといえば、調査で何も出なかった場合、深さ50cmを超えて掘削できるのではないかということ。
深く基礎を掘れるということは大規模な建物も建築可能ではないか、との疑問が生じる。住宅でも1mくらいの基礎は掘りたいし、それは可能ではないか、という疑問だ。
市の説明会では1種から4種の管理区分が示されていたが、文化庁の指導を受けたとはいえこれは市が策定したもの。商業地域などの用途地域とは少し違う。しかも案でまだ決定してもいない。
だとすれば、基礎の深さはさほど重要な項目ではないのではないかとも思うのだが。これは解説というより私の疑問点なので今後調べていきたいと思う。
櫻山神社
保存するのはいつの遺跡か
盛岡城は江戸時代の遺構だが、保存すべきはいつの状態なのだろう。
櫻山神社は江戸時代には現在位置ではなく、淡路丸に所在していた。現在位置には明治時代に遷座したので、江戸時代に復元となると厳密には櫻山神社も移転しなければならなくなる。
ただ、どの状態に保存するかといえば答えは出ており、昭和12年の史跡指定時である。
史跡や、文化財の指定はそこで時間を止めるようなもので、昭和12年の状態が基本となる。そこからの変更は特例で、間取図や立面が残っている復元に限られる。
盛岡城でも地元商工会議所などが中心となって本丸や天守閣の復元の機運が高まった事があるが、きちんとした資料が無い、との事で却下されている。
もっとも、志波城の城柵など、きちんとした立面が分かっていたのか疑問なものもあるが。
そう考えると江戸時代と昭和の対立というより昭和12年と戦後(昭和20年以降)の対立という構図になる。
少なくても「建物」で桜山商店街と盛岡城を比較するのは無理がある。仮に桜山商店街の建物を文化財などで時間を止めてしまい、今以上に手を加えられなくなったらそれこそ商売に支障が出るだろう。文化財は見る分にはいいが住むには不便が多い。
桜山に関する問題点を検証していきたい。
特に私の意見というよりも判断材料になる情報を集めてみたので、参考にしてもらえば幸いです。
桜山史跡解除は可能か
さて、根本的な原因ともいえる「史跡」について。
これの解除は可能なのだろうか。
これは、難しい、というか無理。
終わり。
これでは元も子もない。
私は盛岡城の史跡指定は維持し、その上で商店街の存続を探るとの立場なので、「史跡解除が難しい」で満足して思考停止に陥ってしまう。
ネットでは史跡の地上部分のみ解除との案もみられるが、こうした例は聞いた事がない(不勉強なだけかもしれないが)。地中だけだと第二次世界大戦中の松代大本営を国史跡に、というニュースが流れていたが、これは昭和天皇がらみでやや特殊か。
ただ、史跡とは少し違うが地中の遺跡を保存し建築をしている例が無いわけでもない。しかも、あなたの家の下がそうかもしれない。
そのために、埋蔵文化財指定地域について調べてみた。
埋蔵文化財地域
ウェブもりおか(盛岡市HP)を見ると「土地情報提供システム」というリンクがある。
http://gissv.city.morioka.iwate.jp/map/
「埋蔵文化財」のボタンを押すと
史跡
遺跡(試掘・本調査)
遺跡(立会調査)
遺跡(慎重工事)
調査済(完全終了)
調査済(検出保存)
という区分で地図が表示される。
家や店舗を建築する場合、この中で遺跡(試掘・本調査)、 遺跡(立会調査) 、 遺跡(慎重工事)が関係してくる。
遺跡(慎重工事) は基礎工事のとき何か地中から出てきたら、市の教育委員会に連絡してくれ、というもの。
まぁ、掘っても何も出てこないか出てきてもそれ程重要なものが無い事が分かっている地域だ。
遺跡(立会調査) は少し重要度が高い、または余り調査がされていない地域で、基礎工事で何か出てきたときに隠されたり、見逃したりしないように、市の職員が基礎工事に立会うもの。
遺跡(試掘・本調査) のうち試掘は建物解体後、基礎工事前にバックホーで深さ40cm、幅1.5mくらいの溝を何本か掘っていくもの。
これは、立会った事があるのだが、柱跡など埋まっているものはクッキリ良く分かる。
一方、一里塚や桜山の土塁など、削られてしまったものはもちろん分からない。
本調査は発掘のイメージ通り、おばちゃんなどが丁寧に遺跡を掘り出していく。当然時間が掛かる。教育委員会でも成果も無いところをやたらめったら本調査をするわけにもいかないので、重要物の疑定地が主となる。
盛岡市で例を挙げると前九年や天昌寺地域などだ。以前は厨川の柵があるのではないか、との事でずいぶん丁寧に発掘されていた(発掘により天昌寺付近が最有力となっている)。
市内至る所で調査をしているので、大体の遺跡を市は掴んでいる。その情報によりどういった調査方法を取るか判断している。
発掘調査の費用負担
そして、発掘調査といっても経費が掛かる。
誰が負担するかというと、
自己居住用住宅の場合は補助金が出る。つまり施主は無料。
ただし、予算が枯渇していると翌年度に廻されたりする。
また、試掘で興味深いものが出て本調査となった場合など作業が混んでいると大分待たされる事がある。建替だと家を壊しているので仮住まいが長期に及ぶ。
店舗、事務所、アパートなど事業用建物は事業主(建築主)負担となる。おばちゃんの日当を建築主が負担する。桜山でも建替ができたとして、こうした費用が発生する事は間違いない。
何で、と思うかもしれないが、そういう決まりなので他地区ではこうした費用を負担して事業用建物を建築している。
遺跡が出た場合
遺跡が出てきたらどうなるか。
青森県の三内丸山遺跡は新築県営球場のグランドスタンドがほぼ出来たところで遺跡が出てきた。そのためグランドスタンドは撤去。
県営球場はいまだ建築されずプロ野球が青森県では試合できないそうだ。青森市立球場はプロ規格を満たしていないそうである。まぁ、立派な観光施設が出来たわけだが。
岩手県の徳丹城や志波城などは国史跡に指定されている。そこに元々あった建物は遺跡が後から出てきたとしても更新時期に移転するよう指導を受けている(徳田小学校など)。
そこまで貴重なものでなかったらどうなるか?
例えば中世の館跡など、それなりに貴重だが、市や国が土地を取得するまでもない、または予算がない場合だ。
その場合は、建築が許可される。ただし、遺跡面は保存するように、との指導を受ける事になる。
つまり、基礎より下に遺跡面が来るように土を盛ることになる。地盤補強(杭工事など)はもっての他である。
しかも、掘った場所を埋め戻すので地盤が軟らかくなるという矛盾も発生する(本当は地盤改良をしたいところ)。
盛岡桜山地区に当てはめると
この状態、地面の中が遺跡だが保存されており、地上部は普通に利用される、という形は桜山の史跡の地上部分解除に通じる部分が無いでもない。
ただ、これは「史跡」からただの「埋蔵文化財地域」に格下げする事で史跡解除に他ならず、史跡解除について文化庁は「ありえない」という立場である(新聞にも載っていましたね)。
もうひとつ、桜山本調査で何も出てこなかったらどうなるか、について少し疑問があるのだがこれは次の機会に。
第二次世界大戦前の櫻山神社
手元に「もりおか市政夜話;上田武夫」という本がある。盛岡タイムスの連載を本にまとめたものである。この本と「もりおか物語・内丸・大通りかいわい」に桜山の50年前が詳しく記されているのでこれを参考にしたい。
なお、櫻山神社の江戸時代についてはHP「奥州道中膝栗毛」を見て欲しい。
http://www.geocities.jp/daibutsusama7/shukauba1/
moriokajyoukouen1
櫻山神社が現在位置に遷座(移転)したのは明治時代だが、昭和20年までは八幡宮に見られるような普通の境内地だった。
境内には神楽殿(かぐらでん)が建ち、茶屋が2軒あった。県庁側から神社に向かい左手に桜境亭、右手に桜花亭で、もち、田楽などを参拝客に販売していた。土塁も残っており、桜の木が立ち並んでいた。
亀が池では冬にスケート大会が行われたりしていたというし、ボート遊びも見られたという。
写真は桜境亭。奥に時鐘、脇に土塁が見える。
また、祭りの日は出店で賑わったというが、現在のように道路も貫通していない、商店街も無い静かな環境だった。
そして、昭和12(1937)年 盛岡城跡が史跡指定される。
戦後の桜山かいわい
第二次世界大戦後になると、満州などからの引揚者が盛岡駅前、青山町、櫻山神社などに集まる。復員しても職が無い人々はそれぞれの場所で商売を始める。所謂ヤミ市の発生である。
中でも都心部では「簡易店舗建売商売」を考え出す人物が現れ、櫻山神社や亀が池近辺の空き地を占拠し、バラックを建てて商売を始めたい人々に1戸10万円で販売するなどした。
そのため、あっという間に簡易店舗160世帯以上が建ち並ぶ事態となった。その規模は盛岡一だったというが、もちろんこの時点では不法占拠である。
不法占拠なのでインフラも整備されていない。地区の面積もさほど広くない。そこに大量の人々が集中したので生活雑排水などの汚水が亀が池に垂れ流されることになる(上水は櫻山神社や御田屋清水などから汲んでいた)。
まして安普請のバラックで、建物の中を杉の木が貫通しているものもあり、2~3年後には早くも亀が池の汚染(夏の臭気はすごかったらしい)、建物の老朽化などが問題となっている。
史跡の一部解除
既に史跡だったため建築物の建築も認められない状態だ。とはいえ、占拠者にしても生活のよりどころなので出て行くわけも無い。市としては即時撤去か店舗を認めるために一部史跡解除しかなかったわけだが、史跡解除は解除後も公共用地としての利用が見込める場合に限られていた。
そこで、道路として一部史跡解除を狙う事とした。
昭和29(1954)年 「中の橋、大通り線」が整備される(東大通り)。やはり市を二分する大論争となったが、桟橋形式にする事で史跡の「一部解除」を達成した。解除されたのは亀が池の北側と東側の土塁の一部。
この時、亀が池ほとりの三の丸を占有していた人々が5年の期間(もりおか市政夜話では2年更新)で東大通り向かいの桟橋に移転。居住の伴わない30戸の自費での建築であった。
しかし、この店舗に居住する者も現れ、汚水の垂れ流しによる亀が池の汚染は解消せず、市民の非難からこの仮設店舗は昭和44年で賃貸を終了する(現在は遊歩道)。
25年近くを亀が池で過ごした人々は市から10万円の移転保証金を貰い、市内に散っていくことになる。中には市民に世話になった志として保証金をスポーツ大会に寄付する者も居たという。
桜山の混乱期
一方、櫻山神社境内では百数十世帯が店舗を開いていた。現在の櫻山神社所有地は国有地で、私有地部分は南部家の所有だった。その私有地部分はA氏に売却、その後更にB,C氏に転売された。B,C氏は居住者を立ち退かせ、転売などで利益を得ようと考えたようだが、退去は泥沼化し、B,C間も共有登記だったため自由な処分が出来なくなってしまった。
簡易店舗側162店でも当初は、他所からの転入、土地所有者ではない、という共通点から団結していたが、底地の権利変動から利害が変わり、池側の56店舗が分離独立し「亀が池商協組」を結成した。
残った百十余店は昭和24(1949)年8月17日「盛岡更生市場協組」を結成し法人登記をする。
その後、国有地は櫻山神社に払い下げられ、50年(もりおか市政夜話による)の期限で土地を更生市場協組へ賃貸したため、半数が不法占拠状態から脱する。一方、私有地側の商店は立ち退き問題が整わず、ついに訴訟になる。
そうした中、東大通が完成したのだが、これを期に神社前の18店が東大通に移転し、更生市場組合員は80余りに減った。
写真は戦後のバラック店舗
昭和31(1956)年5月14日 都市計画が決定され、公園緑地となる。ネットを見ると現在地目は「緑地」らしい。
この頃になると店舗側の生活も軌道に乗ってきているが、バラックのまま10年を経た街並みは醜悪といえる状況だった。
この頃までに同じくヤミ市として出発した盛岡駅前や青山町は環境が改善しているが、桜山は「史跡」のために取り残された状態である。
私有地の訴訟は土地所有権と居住権を争点に最高裁に持ち込まれる事態となっていたが、更生組合側が上訴を取り下げ、地主も軟化し話し合いの機運が生まれる。
ところが今度は組合側の意思統一が出来ず、現在の姿になるまでに 数年を要する事になる。
昭和34(1960)年 区画整理に準ずる手法でほぼ現在の街割りとなる。このとき元々有った土塁が崩されているようだ。
「もりおか夜話」の作者上田武夫氏は神社境内にデパートを造り協業化での経営を模索したようだが、「史跡」「公園」であり、組合側も費用負担などから乗り気ではなく、現在の姿に落ち着いている。
終わりに
取り敢えず現在の姿になるまでを記してみた。中立を心がけ、商店街の良い点、悪い点漏らさず載せるようにしたので判断の材料にして頂ければと思う。
それにしても桜山問題の根本原因は「史跡」だという事が見て取れると思う。史跡でさえなければ公園に指定される事もなかっただろう(明治39年には南部家より岩手県に貸与、「岩手公園」として整備されている。設計;長岡安平)。
ただし、歴史の「たられば」を論じても不毛だ。逆に戊辰戦争で賊藩にならなければ、内丸、御新丸くらいまで史跡だったかもしれない。
もうひとつ、「昭和の風情」だけでなく「昭和の問題点」も解決する事なく現在まで残っている事が分かる。
以前は、借地人=商売人だったものが、今は借地人が大家となり、テナントが分離している。利害関係者が増え、ある意味50年前より状況は悪いかもしれない。
それでも過去の歴史を踏まえ、良い解決策を見出してくれればと切に願う。
櫻山の歴史 はじめに
昨日、勝手案として御新丸案を書いた。もう一案は、史跡指定を残しながら現在位置に商店街を残す、というものだが、実は説得力のあるストーリーがまだ構築されていない。
なにせ、昨日書いたように越えなければならないハードルがかなり多い。
御新丸案も以前絵空事とつぶやいた事があるのだが、絵空事の方がストーリーが簡単に構築出来てしまう始末。
そのためこちらの案を書くのはもう少し先になりそう。
その前に桜山の歴史を今日からは少し書いておきたい。知っておいて損は無いと思う。今、50年前の出来事がそのまま繰り返されようとしているのだから。
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