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桜山に関する問題点を検証していきたい。
特に私の意見というよりも判断材料になる情報を集めてみたので、参考にしてもらえば幸いです。
桜山史跡解除は可能か
さて、根本的な原因ともいえる「史跡」について。
これの解除は可能なのだろうか。
これは、難しい、というか無理。
終わり。
これでは元も子もない。
私は盛岡城の史跡指定は維持し、その上で商店街の存続を探るとの立場なので、「史跡解除が難しい」で満足して思考停止に陥ってしまう。
ネットでは史跡の地上部分のみ解除との案もみられるが、こうした例は聞いた事がない(不勉強なだけかもしれないが)。地中だけだと第二次世界大戦中の松代大本営を国史跡に、というニュースが流れていたが、これは昭和天皇がらみでやや特殊か。
ただ、史跡とは少し違うが地中の遺跡を保存し建築をしている例が無いわけでもない。しかも、あなたの家の下がそうかもしれない。
そのために、埋蔵文化財指定地域について調べてみた。
埋蔵文化財地域
ウェブもりおか(盛岡市HP)を見ると「土地情報提供システム」というリンクがある。
http://gissv.city.morioka.iwate.jp/map/
「埋蔵文化財」のボタンを押すと
史跡
遺跡(試掘・本調査)
遺跡(立会調査)
遺跡(慎重工事)
調査済(完全終了)
調査済(検出保存)
という区分で地図が表示される。
家や店舗を建築する場合、この中で遺跡(試掘・本調査)、 遺跡(立会調査) 、 遺跡(慎重工事)が関係してくる。
遺跡(慎重工事) は基礎工事のとき何か地中から出てきたら、市の教育委員会に連絡してくれ、というもの。
まぁ、掘っても何も出てこないか出てきてもそれ程重要なものが無い事が分かっている地域だ。
遺跡(立会調査) は少し重要度が高い、または余り調査がされていない地域で、基礎工事で何か出てきたときに隠されたり、見逃したりしないように、市の職員が基礎工事に立会うもの。
遺跡(試掘・本調査) のうち試掘は建物解体後、基礎工事前にバックホーで深さ40cm、幅1.5mくらいの溝を何本か掘っていくもの。
これは、立会った事があるのだが、柱跡など埋まっているものはクッキリ良く分かる。
一方、一里塚や桜山の土塁など、削られてしまったものはもちろん分からない。
本調査は発掘のイメージ通り、おばちゃんなどが丁寧に遺跡を掘り出していく。当然時間が掛かる。教育委員会でも成果も無いところをやたらめったら本調査をするわけにもいかないので、重要物の疑定地が主となる。
盛岡市で例を挙げると前九年や天昌寺地域などだ。以前は厨川の柵があるのではないか、との事でずいぶん丁寧に発掘されていた(発掘により天昌寺付近が最有力となっている)。
市内至る所で調査をしているので、大体の遺跡を市は掴んでいる。その情報によりどういった調査方法を取るか判断している。
発掘調査の費用負担
そして、発掘調査といっても経費が掛かる。
誰が負担するかというと、
自己居住用住宅の場合は補助金が出る。つまり施主は無料。
ただし、予算が枯渇していると翌年度に廻されたりする。
また、試掘で興味深いものが出て本調査となった場合など作業が混んでいると大分待たされる事がある。建替だと家を壊しているので仮住まいが長期に及ぶ。
店舗、事務所、アパートなど事業用建物は事業主(建築主)負担となる。おばちゃんの日当を建築主が負担する。桜山でも建替ができたとして、こうした費用が発生する事は間違いない。
何で、と思うかもしれないが、そういう決まりなので他地区ではこうした費用を負担して事業用建物を建築している。
遺跡が出た場合
遺跡が出てきたらどうなるか。
青森県の三内丸山遺跡は新築県営球場のグランドスタンドがほぼ出来たところで遺跡が出てきた。そのためグランドスタンドは撤去。
県営球場はいまだ建築されずプロ野球が青森県では試合できないそうだ。青森市立球場はプロ規格を満たしていないそうである。まぁ、立派な観光施設が出来たわけだが。
岩手県の徳丹城や志波城などは国史跡に指定されている。そこに元々あった建物は遺跡が後から出てきたとしても更新時期に移転するよう指導を受けている(徳田小学校など)。
そこまで貴重なものでなかったらどうなるか?
例えば中世の館跡など、それなりに貴重だが、市や国が土地を取得するまでもない、または予算がない場合だ。
その場合は、建築が許可される。ただし、遺跡面は保存するように、との指導を受ける事になる。
つまり、基礎より下に遺跡面が来るように土を盛ることになる。地盤補強(杭工事など)はもっての他である。
しかも、掘った場所を埋め戻すので地盤が軟らかくなるという矛盾も発生する(本当は地盤改良をしたいところ)。
盛岡桜山地区に当てはめると
この状態、地面の中が遺跡だが保存されており、地上部は普通に利用される、という形は桜山の史跡の地上部分解除に通じる部分が無いでもない。
ただ、これは「史跡」からただの「埋蔵文化財地域」に格下げする事で史跡解除に他ならず、史跡解除について文化庁は「ありえない」という立場である(新聞にも載っていましたね)。
もうひとつ、桜山本調査で何も出てこなかったらどうなるか、について少し疑問があるのだがこれは次の機会に。
第二次世界大戦前の櫻山神社
手元に「もりおか市政夜話;上田武夫」という本がある。盛岡タイムスの連載を本にまとめたものである。この本と「もりおか物語・内丸・大通りかいわい」に桜山の50年前が詳しく記されているのでこれを参考にしたい。
なお、櫻山神社の江戸時代についてはHP「奥州道中膝栗毛」を見て欲しい。
http://www.geocities.jp/daibutsusama7/shukauba1/
moriokajyoukouen1
櫻山神社が現在位置に遷座(移転)したのは明治時代だが、昭和20年までは八幡宮に見られるような普通の境内地だった。
境内には神楽殿(かぐらでん)が建ち、茶屋が2軒あった。県庁側から神社に向かい左手に桜境亭、右手に桜花亭で、もち、田楽などを参拝客に販売していた。土塁も残っており、桜の木が立ち並んでいた。
亀が池では冬にスケート大会が行われたりしていたというし、ボート遊びも見られたという。
写真は桜境亭。奥に時鐘、脇に土塁が見える。
また、祭りの日は出店で賑わったというが、現在のように道路も貫通していない、商店街も無い静かな環境だった。
そして、昭和12(1937)年 盛岡城跡が史跡指定される。
戦後の桜山かいわい
第二次世界大戦後になると、満州などからの引揚者が盛岡駅前、青山町、櫻山神社などに集まる。復員しても職が無い人々はそれぞれの場所で商売を始める。所謂ヤミ市の発生である。
中でも都心部では「簡易店舗建売商売」を考え出す人物が現れ、櫻山神社や亀が池近辺の空き地を占拠し、バラックを建てて商売を始めたい人々に1戸10万円で販売するなどした。
そのため、あっという間に簡易店舗160世帯以上が建ち並ぶ事態となった。その規模は盛岡一だったというが、もちろんこの時点では不法占拠である。
不法占拠なのでインフラも整備されていない。地区の面積もさほど広くない。そこに大量の人々が集中したので生活雑排水などの汚水が亀が池に垂れ流されることになる(上水は櫻山神社や御田屋清水などから汲んでいた)。
まして安普請のバラックで、建物の中を杉の木が貫通しているものもあり、2~3年後には早くも亀が池の汚染(夏の臭気はすごかったらしい)、建物の老朽化などが問題となっている。
史跡の一部解除
既に史跡だったため建築物の建築も認められない状態だ。とはいえ、占拠者にしても生活のよりどころなので出て行くわけも無い。市としては即時撤去か店舗を認めるために一部史跡解除しかなかったわけだが、史跡解除は解除後も公共用地としての利用が見込める場合に限られていた。
そこで、道路として一部史跡解除を狙う事とした。
昭和29(1954)年 「中の橋、大通り線」が整備される(東大通り)。やはり市を二分する大論争となったが、桟橋形式にする事で史跡の「一部解除」を達成した。解除されたのは亀が池の北側と東側の土塁の一部。
この時、亀が池ほとりの三の丸を占有していた人々が5年の期間(もりおか市政夜話では2年更新)で東大通り向かいの桟橋に移転。居住の伴わない30戸の自費での建築であった。
しかし、この店舗に居住する者も現れ、汚水の垂れ流しによる亀が池の汚染は解消せず、市民の非難からこの仮設店舗は昭和44年で賃貸を終了する(現在は遊歩道)。
25年近くを亀が池で過ごした人々は市から10万円の移転保証金を貰い、市内に散っていくことになる。中には市民に世話になった志として保証金をスポーツ大会に寄付する者も居たという。
桜山の混乱期
一方、櫻山神社境内では百数十世帯が店舗を開いていた。現在の櫻山神社所有地は国有地で、私有地部分は南部家の所有だった。その私有地部分はA氏に売却、その後更にB,C氏に転売された。B,C氏は居住者を立ち退かせ、転売などで利益を得ようと考えたようだが、退去は泥沼化し、B,C間も共有登記だったため自由な処分が出来なくなってしまった。
簡易店舗側162店でも当初は、他所からの転入、土地所有者ではない、という共通点から団結していたが、底地の権利変動から利害が変わり、池側の56店舗が分離独立し「亀が池商協組」を結成した。
残った百十余店は昭和24(1949)年8月17日「盛岡更生市場協組」を結成し法人登記をする。
その後、国有地は櫻山神社に払い下げられ、50年(もりおか市政夜話による)の期限で土地を更生市場協組へ賃貸したため、半数が不法占拠状態から脱する。一方、私有地側の商店は立ち退き問題が整わず、ついに訴訟になる。
そうした中、東大通が完成したのだが、これを期に神社前の18店が東大通に移転し、更生市場組合員は80余りに減った。
写真は戦後のバラック店舗
昭和31(1956)年5月14日 都市計画が決定され、公園緑地となる。ネットを見ると現在地目は「緑地」らしい。
この頃になると店舗側の生活も軌道に乗ってきているが、バラックのまま10年を経た街並みは醜悪といえる状況だった。
この頃までに同じくヤミ市として出発した盛岡駅前や青山町は環境が改善しているが、桜山は「史跡」のために取り残された状態である。
私有地の訴訟は土地所有権と居住権を争点に最高裁に持ち込まれる事態となっていたが、更生組合側が上訴を取り下げ、地主も軟化し話し合いの機運が生まれる。
ところが今度は組合側の意思統一が出来ず、現在の姿になるまでに 数年を要する事になる。
昭和34(1960)年 区画整理に準ずる手法でほぼ現在の街割りとなる。このとき元々有った土塁が崩されているようだ。
「もりおか夜話」の作者上田武夫氏は神社境内にデパートを造り協業化での経営を模索したようだが、「史跡」「公園」であり、組合側も費用負担などから乗り気ではなく、現在の姿に落ち着いている。
終わりに
取り敢えず現在の姿になるまでを記してみた。中立を心がけ、商店街の良い点、悪い点漏らさず載せるようにしたので判断の材料にして頂ければと思う。
それにしても桜山問題の根本原因は「史跡」だという事が見て取れると思う。史跡でさえなければ公園に指定される事もなかっただろう(明治39年には南部家より岩手県に貸与、「岩手公園」として整備されている。設計;長岡安平)。
ただし、歴史の「たられば」を論じても不毛だ。逆に戊辰戦争で賊藩にならなければ、内丸、御新丸くらいまで史跡だったかもしれない。
もうひとつ、「昭和の風情」だけでなく「昭和の問題点」も解決する事なく現在まで残っている事が分かる。
以前は、借地人=商売人だったものが、今は借地人が大家となり、テナントが分離している。利害関係者が増え、ある意味50年前より状況は悪いかもしれない。
それでも過去の歴史を踏まえ、良い解決策を見出してくれればと切に願う。
櫻山の歴史 はじめに
昨日、勝手案として御新丸案を書いた。もう一案は、史跡指定を残しながら現在位置に商店街を残す、というものだが、実は説得力のあるストーリーがまだ構築されていない。
なにせ、昨日書いたように越えなければならないハードルがかなり多い。
御新丸案も以前絵空事とつぶやいた事があるのだが、絵空事の方がストーリーが簡単に構築出来てしまう始末。
そのためこちらの案を書くのはもう少し先になりそう。
その前に桜山の歴史を今日からは少し書いておきたい。知っておいて損は無いと思う。今、50年前の出来事がそのまま繰り返されようとしているのだから。
盛岡桜山 勝手案(予算はどこから案)
盛岡桜山が騒がしい。
ただ、突然の市の発表から1ヶ月が過ぎ、表面上は冷静さを取り戻しているようではある。ただ、いわばこう着状態で状況は変わっていない。
一方、公園、史跡など大いに市民すべてにかかわる問題なのに、市民にしてみれば情報が少ない状態で、そのせいか全体的な関心も低いように思う。
意見が見えてくるのは商店街とそのお客さん、中心部の方、良し悪しは別にしてツイッターや一部掲示板くらいか。
当事者の地元はその場所から追い出されるかもしれないのに未来像まで頭が回らないのだろう。今のところは署名を集めている段階で商店街ならではの未来像も聞こえてこない。
今のままが一番楽だが、状況はそれを許さない(借地契約期間が切れたらそのまま更新してくれるだろうか?)。とはいえ、衣食足りた段階で文化や未来を語るのだろう。
そうした中、地元住民以外で解決案をブログなどに書く人も現れている。関心を保つ一助となればと私もそれに乗っかろうと思うのだがさて。
解決しなければならない桜山の問題点
とりあえず2つほど勝手案を考えたがまずはひとつ。
桜山商店街が望む現状維持のために乗り越えなければならない壁は以下の通り。
1.史跡である
2.公園である
3.地目が宅地ではなく緑地である。
4.桜山神社所有地の借地契約の期限(50年)が数年後に迫っている。
5.個人所有地の借地契約更新(50年前はここが一番モメた)
6.地主、大家、テナントがすべて違う。
7.テナント、大家の収入(生活)補償の問題。
8.現状第一種住居地域で建蔽率オーバー。
9.建物が既存不適格。
10.防火建物ではない(周りは防火建物)。
11.築50年の建物の耐震性が不安(基礎から直したいところ)。
12.そもそも老朽化(寒い、結露、防音)
13.インフラ(上下水など)の問題。
14.基礎深さの不足(下水あってももおそらく勾配不足でしょう)。
まだありそうだが、思いつくだけあげてみた。土地関連の問題点が全て凝縮されているようだ。
これらを解決するのはどれひとつとして簡単ではない。
御新丸移転案
そこで、商店街を別地に移転してしまおうというのが今回の案である。
とはいっても、遠くに移転した場合、今までのお得意さんを失うのではないか、今の商店街のつながりが無くなるなど商店街側の抵抗が当然あるだろう。
そこで亀ヶ池西側の国合同庁舎と県議会議員会館用地に注目してみた。
合庁、議員会館、駐車場用地を合計すると地図上では桜山地区より広くなる。
ここにビルを建て、商店街の皆さんに移ってもらって、ガイダンス施設やみやげ物店、食堂もここに設置する。
ここだと勘定所ではないから「御新丸風建物」でも「昭和風建物」でも地域のアイデンティティーを主張できる外観にすれば良い。
元々商業地域だから用途地域の変更も不要だし、必要ならば3~5階などの中高層建築も可能ではないだろうか。
更に、建替の場合の仮店舗なども必要ない。
堀も望めるので盛岡城の風情も今までと同じく楽しめる。団体ではなくグループ学習行動が多いという最近の修学旅行生も歩いて訪れやすい。
そして現在の桜山地区は境内地でも緑地でも駐車場でも、構造物のない状態にする事ができるので文化庁も満足でしょう(ところで普段市営駐車場もガラガラだが、市はバスの駐車場が欲しいのだろうか?)。
移転交渉において代替地を用意するのは珍しくはないし、プラザおでってを建築した経験のある盛岡市だ、これくらいのハコモノはお手のものだろう。
御新丸の問題点
もちろんここには耐用年数の長い建物が既に建っている。
国の合同庁舎だが、実は築30年の国合同庁舎2号館は最近増改築工事がほぼ完了したようである。
ただ、築40年の1号館は解体される予定で、市有地と国有地の等価交換で盛岡駅西口区画整理地内に移転工事中だ。空いた土地は駐車場だという。
2号館も15~20年で建替しても良い時期になるのではないだろうか。得意の等価交換で盛岡駅西口に合同庁舎の機能を集約すれば良いのでは?そうなると建物の建築費が必要になるが、これはいずれ更新が必要になる分だ。
県議員会館の竣工年は調べていないのだが、平成19年に改修工事を行っている。残りの耐用年数がどれくらいかは分からないが、数十年先とまではいかないだろう。
県営駐車場はRC造と違い寿命はもっと短いと思われる。
議員会館の移転先だが、岩手医大も矢巾への移転事業を進めており(予定より進捗が早いという)、長期的には付近に土地が空く可能性がある。病院跡地はマンションなどでは忌避される可能性も高いので、公共建物で埋める、というのはそれほど無理のある考えでは無いと思う。
国や県が絡んでくるがいずれは建物の寿命が来るのだし、用途地域の変更(県)、国史跡の指定解除(国)の原則を曲げるよりは実現性が高いと思うのだがいかがだろうか。
問題点は資金が掛かるということと時間が掛かるということ。
ただ、説明会で史跡からの移転は国からの予算が見込めると発言していたし、勘定所風建物を市独自事業で行おうとしているのだ。予算規模でそれほど違いは無いようにも思える。タイミングは難しそうだが。
商店街側にしてみれば、
1.テナントの救済になっても大家の救済にならない(建物の移転補償費は出るだろう)。
2.昭和の風情は無くなる可能性が高い。
といった問題点が残るか。
いずれにせよ早急な解決は難しそうではある。
ただ、早めに方向性を出し、20年くらいかけて権利関係を解決していく必要があるのではないだろうか。60年も先送りしてきたのだから。
なお、この案はあくまで勝手案なので、詰めが甘いところもありますが建設的なご意見、突っ込みをお待ちしています。
方法は簡単で、自作PCのスクリーンセーバーを写真に設定するだけ。ランダム表示にすれば余り飽きない。
もっとも家族には自分の写真が表示されるために不評だが。