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奥州道中が岩沼から仙台までの直線路に付け替えられるまでは、岩沼から仙台西を通り、多賀城へ抜けていた。その多賀城に現在に残る多賀城碑、これは歌枕の「壺の碑(つぼのいしぶみ)」であるとの説がある。万治~寛文年間(1658~1672)に土の中、或いは草むらの発見とされ、土の中から掘り出されたとか、草むらで発見されたという。当初から歌枕の「壷の碑」とされ有名で、「奥の細道」によると松尾芭蕉が元禄二(1689)年に見に来ている。
なお、青森県の東北町にも「日本(ひのもと)中央の碑」があり、こちらが「壺の碑」とする説もある。
その前に、多賀城碑の真贋論争が江戸末期から明治に掛けて盛んに行われた事に触れておきたい。これが本物の「壺の碑」では無く、歌枕を領内に増やす意図を持って伊達藩により作成されたものではないか、という疑惑である。
ただし、昭和の多賀城発掘調査により碑文と合致する改修跡が発見され、現在は真作とされる。この成果により平成10年国の重要文化財に指定されている。
つまり、多賀城碑が奈良時代から存在していたのは間違いないが、これが「壺の碑」かは分からないということである。青森の方は「壺」に通じる都母(つも)と言う地名や千曳神社により伝承の周辺が補強されている。もっとも肝心の碑が千人で曳くほど大きくは無いなどこちらも本物とするには証拠が弱い感がある。
ちなみに青森県八戸市の八戸市立博物館には何故か多賀城碑の拓本が展示されている。本物は多賀城南門近くの覆堂内に設置されている。
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