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第二次世界大戦前の櫻山神社
手元に「もりおか市政夜話;上田武夫」という本がある。盛岡タイムスの連載を本にまとめたものである。この本と「もりおか物語・内丸・大通りかいわい」に桜山の50年前が詳しく記されているのでこれを参考にしたい。
なお、櫻山神社の江戸時代についてはHP「奥州道中膝栗毛」を見て欲しい。
http://www.geocities.jp/daibutsusama7/shukauba1/
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櫻山神社が現在位置に遷座(移転)したのは明治時代だが、昭和20年までは八幡宮に見られるような普通の境内地だった。
境内には神楽殿(かぐらでん)が建ち、茶屋が2軒あった。県庁側から神社に向かい左手に桜境亭、右手に桜花亭で、もち、田楽などを参拝客に販売していた。土塁も残っており、桜の木が立ち並んでいた。
亀が池では冬にスケート大会が行われたりしていたというし、ボート遊びも見られたという。
写真は桜境亭。奥に時鐘、脇に土塁が見える。
また、祭りの日は出店で賑わったというが、現在のように道路も貫通していない、商店街も無い静かな環境だった。
そして、昭和12(1937)年 盛岡城跡が史跡指定される。
戦後の桜山かいわい
第二次世界大戦後になると、満州などからの引揚者が盛岡駅前、青山町、櫻山神社などに集まる。復員しても職が無い人々はそれぞれの場所で商売を始める。所謂ヤミ市の発生である。
中でも都心部では「簡易店舗建売商売」を考え出す人物が現れ、櫻山神社や亀が池近辺の空き地を占拠し、バラックを建てて商売を始めたい人々に1戸10万円で販売するなどした。
そのため、あっという間に簡易店舗160世帯以上が建ち並ぶ事態となった。その規模は盛岡一だったというが、もちろんこの時点では不法占拠である。
不法占拠なのでインフラも整備されていない。地区の面積もさほど広くない。そこに大量の人々が集中したので生活雑排水などの汚水が亀が池に垂れ流されることになる(上水は櫻山神社や御田屋清水などから汲んでいた)。
まして安普請のバラックで、建物の中を杉の木が貫通しているものもあり、2~3年後には早くも亀が池の汚染(夏の臭気はすごかったらしい)、建物の老朽化などが問題となっている。
史跡の一部解除
既に史跡だったため建築物の建築も認められない状態だ。とはいえ、占拠者にしても生活のよりどころなので出て行くわけも無い。市としては即時撤去か店舗を認めるために一部史跡解除しかなかったわけだが、史跡解除は解除後も公共用地としての利用が見込める場合に限られていた。
そこで、道路として一部史跡解除を狙う事とした。
昭和29(1954)年 「中の橋、大通り線」が整備される(東大通り)。やはり市を二分する大論争となったが、桟橋形式にする事で史跡の「一部解除」を達成した。解除されたのは亀が池の北側と東側の土塁の一部。
この時、亀が池ほとりの三の丸を占有していた人々が5年の期間(もりおか市政夜話では2年更新)で東大通り向かいの桟橋に移転。居住の伴わない30戸の自費での建築であった。
しかし、この店舗に居住する者も現れ、汚水の垂れ流しによる亀が池の汚染は解消せず、市民の非難からこの仮設店舗は昭和44年で賃貸を終了する(現在は遊歩道)。
25年近くを亀が池で過ごした人々は市から10万円の移転保証金を貰い、市内に散っていくことになる。中には市民に世話になった志として保証金をスポーツ大会に寄付する者も居たという。
桜山の混乱期
一方、櫻山神社境内では百数十世帯が店舗を開いていた。現在の櫻山神社所有地は国有地で、私有地部分は南部家の所有だった。その私有地部分はA氏に売却、その後更にB,C氏に転売された。B,C氏は居住者を立ち退かせ、転売などで利益を得ようと考えたようだが、退去は泥沼化し、B,C間も共有登記だったため自由な処分が出来なくなってしまった。
簡易店舗側162店でも当初は、他所からの転入、土地所有者ではない、という共通点から団結していたが、底地の権利変動から利害が変わり、池側の56店舗が分離独立し「亀が池商協組」を結成した。
残った百十余店は昭和24(1949)年8月17日「盛岡更生市場協組」を結成し法人登記をする。
その後、国有地は櫻山神社に払い下げられ、50年(もりおか市政夜話による)の期限で土地を更生市場協組へ賃貸したため、半数が不法占拠状態から脱する。一方、私有地側の商店は立ち退き問題が整わず、ついに訴訟になる。
そうした中、東大通が完成したのだが、これを期に神社前の18店が東大通に移転し、更生市場組合員は80余りに減った。
写真は戦後のバラック店舗
昭和31(1956)年5月14日 都市計画が決定され、公園緑地となる。ネットを見ると現在地目は「緑地」らしい。
この頃になると店舗側の生活も軌道に乗ってきているが、バラックのまま10年を経た街並みは醜悪といえる状況だった。
この頃までに同じくヤミ市として出発した盛岡駅前や青山町は環境が改善しているが、桜山は「史跡」のために取り残された状態である。
私有地の訴訟は土地所有権と居住権を争点に最高裁に持ち込まれる事態となっていたが、更生組合側が上訴を取り下げ、地主も軟化し話し合いの機運が生まれる。
ところが今度は組合側の意思統一が出来ず、現在の姿になるまでに 数年を要する事になる。
昭和34(1960)年 区画整理に準ずる手法でほぼ現在の街割りとなる。このとき元々有った土塁が崩されているようだ。
「もりおか夜話」の作者上田武夫氏は神社境内にデパートを造り協業化での経営を模索したようだが、「史跡」「公園」であり、組合側も費用負担などから乗り気ではなく、現在の姿に落ち着いている。
終わりに
取り敢えず現在の姿になるまでを記してみた。中立を心がけ、商店街の良い点、悪い点漏らさず載せるようにしたので判断の材料にして頂ければと思う。
それにしても桜山問題の根本原因は「史跡」だという事が見て取れると思う。史跡でさえなければ公園に指定される事もなかっただろう(明治39年には南部家より岩手県に貸与、「岩手公園」として整備されている。設計;長岡安平)。
ただし、歴史の「たられば」を論じても不毛だ。逆に戊辰戦争で賊藩にならなければ、内丸、御新丸くらいまで史跡だったかもしれない。
もうひとつ、「昭和の風情」だけでなく「昭和の問題点」も解決する事なく現在まで残っている事が分かる。
以前は、借地人=商売人だったものが、今は借地人が大家となり、テナントが分離している。利害関係者が増え、ある意味50年前より状況は悪いかもしれない。
それでも過去の歴史を踏まえ、良い解決策を見出してくれればと切に願う。
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